[ケアビジネスSHINKA論 Vol.2809]

失敗の本質

みなさん、おはようございます。
金曜日のメルマガ担当、ケアビジネスパートナーズの尾添です。

先週に続き失敗に関して、今週は『失敗の本質』という本を採り上げます。
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この書籍は、経営学の大家として知られる野中郁次郎氏をはじめとする様々な分野の権威が
集まり「なぜ大東亜戦争で日本は敗れたのか?」という問いに迫ったもの。
実際に起こった6つの戦闘を中心に、多く論じられているのは組織的な失敗(組織的欠陥や
特性)の分析です。
いずれの戦闘も現場の惨状は目を覆いたくなるものばかり、また失敗の原因を追究する内容
は、決して読んでいて気持ちの良いものではありません。
でも、この本は1984年に初版が出版されて以降、ずっと売れ続けています。
単なる結果論・分析の本ではないはず、改めて紐解いてみます。
全てというわけにはいかないので、印象深かった「ノモンハン事件」を採り上げます。

それでは本日のメルマガです。

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■■失敗の本質
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◆ノモンハン事件は、1939年に当時の満州とモンゴルの国境地帯で起こった日本軍とソ連・
モンゴル連合軍との軍事衝突です。
日本軍は結果として大敗し、その後の戦闘・戦争にも影響を与えた事件とされています。
もともとは20人ばかりの小競り合い、しかもキッカケは日本軍が敵情を“偵察”に出かけた
ことからと記録が残っています。
歴史にタラレバはありませんし無責任な分析は批判も出来ませんが、そこに至る経緯、また
最初の衝突から戦闘が大きくなる過程は、読んでいて歯痒く、そして悔しくなります。

◆この本は多くの方にレビューされ、ネットやYouTubeでも多数の要約・解説があります。
本書内やレビュー・解説では、特に満州国をはじめ東アジアを統治していた関東軍(そして
指揮する将校など指導部)の責任について指摘されています。
読むほどに、その責任の重さを痛感し、思わず「何やってるんだー」と叫びたくなるほど。
どのような責任(失敗の原因)が指摘されているのかというと、主には以下の点です。

情報軽視と誤認
・情報収集の不足(相手の戦力を過小評価し戦況を正確に把握しなかった)
・情報伝達の欠如(前線からの情報が上層部に正確に伝わらなかった)
戦略の欠如
・長期的視野の欠如(場当たり的な戦略を採用し続けた)
・柔軟性の欠如(固定観念に囚われ戦況の変化に柔軟に対応できなかった)
上層部の独断専行
・中央との連携不足(中央の統制を無視し独断専行で統制を乱した)
・意志疎通の不備(軍司令部と前線部隊の間で意志疎通が不十分だった)
政治的背景
・政府と軍の不一致(政府が軍部の暴走を抑制できなかった)
・政治的思惑(戦闘が政治的に利用される側面があった)

◆「わが軍に敵なし」と思って慢心したのでしょうか、世界の情勢や変化への関心も薄れて
いったように見受けます。
それまで日本軍は連戦連勝、特にアジア地域(満州国)を統治する関東軍が褒め称えられ、
中央(東京)が制御不能になるほどの力を持ちはじめます。
勝てば官軍と言いますが、日本軍の初期の成功は、敵に対する精密な情報収集と計画に基づ
いていたと記録に残っています。
その外交戦術も含め、強い意志と責任を持った指揮官がしたたかさを持って作戦を遂行して
いました。
慢心は、そうした過去の成功や築き上げた実績を崩壊へと導きます。
先述の失敗分析はその通りなのですが、私が感じた大きなポイントは次の2点、行きつくの
はやはり組織・マネジメントの失敗です。

①実力を超えた権限移譲、適材適所の無視
もともと関東軍は、満州国を統治する組織であり、いわば治安組織。
申し上げるまでもなく、攻めと守りに必要となる能力は別物です。
かつて前線の軍を指揮したのは(分かりやすく言えば)戦のプロであり、戦闘時において力
を発揮します。
当時の関東軍はというと、陸軍士官学校の成績上位者で並べられたと言います。
決して現場経験が豊富ではなく、学問・知識として兵法や組織論を学んだ上官が指揮します。
力を持った関東軍に「治安(行政)」に加えて「戦闘(軍事)」までも任せてしまった。
実際に描かれた当時の様子でも、戦局の変化を肌身で感じ取れない上層部の曖昧かつ不正確
な指示伝達が多くの犠牲の要因となったことが分かります。
もちろん関東軍には優れた面があった事実もありました。
が、局面は大きく大きく変化したのです。

②中央の無責任
関東軍の失敗はさることながら、中央(東京)の当時の状況も無視できません。
いくら関東軍が暴走したとはいえ、それを指揮統括するのが中央の役割です。
あろうことか戦局が混迷を極める真っ只中の1939年8月28日、当時の内閣は総辞職します。
その理由は「複雑怪奇なる新情勢」のため。
なんたる無責任、とても関東軍の暴挙だけを一方的に責められません。
この政治の混乱は、当然ながら軍事の混乱にも繋がり、トップ不在のまま皺寄せは全て現場に
もたらされます。

◆いずれの点も、政治においても企業活動においても、今に通じる(いまだに教訓が活かされ
ない)話ではないでしょうか。
上層部の曖昧な指示、判断の遅さ、情報伝達の不徹底は、結果として大きな犠牲を生みます。
ジュネーブ条約では、戦争において全軍の3割が戦死・負傷した場合には降参が認められ、
攻撃が禁止されています。
ノモンハン事件の戦闘で日本軍の戦士・負傷者数は7割弱、なぜここまで。。

これほどの事態を引き起こした当時の最高指揮官は生き残り、その後に国会議員になったとの
の記述もありました。

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私の亡くなった祖父は、決して戦争のことを口にしませんでした。
学生だった私も、聞くことはしませんでした。
戦国時代の戦と違い、先の大戦はまだ歴史と呼ぶには早すぎる、生暖かさを残したままです。
軽々しく採り上げたつもりはありませんが、平和な時代に生きる私たちは、きちんと過去に
目を向けて学ばなければいけない。
改めてそう痛感しました。

本日もありがとうございました。